「佐世保の事件について 先生はどう思われますか?」

今、思春期について講演して、質疑応答があれば必ずこの質問は出るのだろう。
昨日の長崎での最後の質問も、「あの加害者の少女については、発達障がいがあったと言う人もいますが、先生はどう思われますか?」との問だった。

私は、「何が彼女をそうさせたか」よりも、「なぜ彼女を止めるものがなかったか」を考えたい。
私は以前、心理シミュレーションとして「自分はどんなことにあったら人を殺したいと思うか?」そして、「なぜそれを実行しないか?」を考えたことがある。
私は・・・もし我が子が無残な殺され方をしたら、その犯人を殺したいと思うだろう。裁判などを待たずに、犯人を自力で見つけ出して殺したいと思うだろう。その時に、「そんなことをしたら私は死刑になるかもしれない」などということは全く歯止めにならない。自分は死刑になったってかまわない、我が子の敵が討てるなら・・と考えると、罪の厳罰化は全く意味を持たないことが分かる。
しかし、私はしない。なぜなら、私はかまわないが、私のしたことで私以上に悲しみ、苦しむ人=家族がいるからである。私以上に悲しみ苦しむ人が「ストッパー」となる。
これは放火を繰り返すある五歳児に悩んだ施設保育士からの相談で、考え合ったことだった。彼女は、その子にとってそんなストッパーになることに、それからの数年をかけた。

だとすると、罪を犯す人にとってストッパーになるのは、厳罰化でも教育でもなく、「その人の行為で、その人以上に悲しみ苦しむ人」という関係性なのだ。
彼女のストッパーは、実母の死後次々と失われていったのだろう。彼女がどんな障がいを持っていても、ストッパーとしての愛着関係があったら、どこかで止まったかもしれないとお話しさせて頂いた。
そして障がいに関係なく、このストッパーとなる関係性の希薄な子どもが増えていると感じることに危機感がある・・とも。

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